ライフサイクル

ライフサイクルについて

ライフサイクルについて

引用文献:「エリクソンは語るーアイデンティティの心理学」
R.I.エヴァンズ/著 新曜社


■生涯発達とは何か

人間の発達が、加齢による生物学的な成熟(身長、体重の増加など)、そして衰退(体力的衰えや、記憶力の低下など)のみを基礎としたものではなく、年齢の時期に応じて、社会的、文化的な誕生から死までの生涯をかけて「発達する存在」であることを前提として、出生から、子ども、大人、老人に至るまでの発達を包括的に見ていくことを「生涯発達」(論)と称します。

■「生涯発達」(論)のパイオニア

この「生涯発達」(論)のパイオニアとして、精神分析家で発達心理学者のエリク・H・エリクソンが提唱した「ライフサイクル」という概念があります。これはエリクソンが、日々の臨床に加えて、アメリカ・インディアンの生活についての文化人類学的な参与や、偉人の伝記研究などを通じて、人生の経過を円環的に書いて説明したもので、人生を8つの時期に分けて論ずる「発達図式」を編み出しました。

■人間の8つの発達段階 ライフサイクル

それぞれの発達段階には、成長・健康に向けてのポジティブな力と、一方で、退行・病理に向かうネガティブな力が拮抗しており、その両者の関係性が正常な発達に関係していると考えました。そして、ポジティブな力がネガティブな力よりも強くなれば、より健康的な発達をしていくことになります。その結果、自我の強さである「人格的活力」、換言すれば、「よりよく生きていくための力」が生まれるとしました。

この時に、ネガティブな力の方が勝って経験すると、今後の人生がすべてうまくいかないというわけではありません。逆に、各段階にて、いったん獲得すれば問題ないというわけでもありません。このポジティブな力とネガティブな力の拮抗は、生涯にわたって続き、様々な形で何度も獲得し実感しながら、ポジティブな力の方が勝るような体験・経験をすることによって、自分自身の人生をよりよく生きていく力を蓄えていくのです。

全ての発達段階において重要なのは、ポジティブな力のみが備わればいいという訳ではなく、ネガティブな力との拮抗(バランス)の結果、ポジティブな力が勝っている形での経験のプロセスが大切と言えます。

 

1.乳児期:生命の誕生から出産まで(0歳~1歳半ごろ)

基本的信頼感⇔基本的不信感  ―希望― 

あらゆる生き物に共通しているのは、それぞれの種の継続のために子孫を残していくといった、生物学的な仕組みを備えていることです。人間に最も近い霊長類、ゴリラやチンパンジーは生まれたばかりで、感覚器官はある程度成熟しており、移動能力もあります。

しかし、ゴリラやチンパンジーよりも複雑な組織、脳の進化を持っている、我々人間は、非常に未成熟な状態で生まれてきます。このことを「生理的早産」と呼びます。つまり、正常の出産であるにも関わらず、生理的に「早産」となるのです。  

生理的早産の状態で生まれる人間の赤ちゃんは、単独では生きていくことはできません。イギリスの精神分析医のウィニコットは、このような赤ちゃんと母親の関係を「単独の赤ちゃんと言うものは存在しない。ただ一組のお母さんと赤ちゃんが存在するだけだ」と述べています。この言葉に象徴されるように、「赤ちゃん―母親」というペアで捉える視点が必要となっていきます。  

そのような関係性を踏まえて、ライフサイクルの理論に基づくと、この乳児期は「基本的信頼感」と「基本的不信感」というポジティブな力とネガティブな力の拮抗がテーマとなります。  

具体的には、赤ちゃんがいつも自分の欲求がすぐに満たされない状態において「不信感」を持ちつつも、そこに関与し、世話をする母親の存在によって「他人や社会を信じても大丈夫」といった「信頼感」も持つことがテーマです。

ここでのポイントは「不信感」も経験しておくことです。親としてはできるだけ、赤ちゃんの欲求を満たしてあげたいと思うでしょうが、すべての欲求を満たすことは容易ではありません。いや、むしろ無理と言ってもいいでしょう。(ここで完璧を求め過ぎてしまうことは、母子ともにあまりいいことではありません。)多少の不信感を経験することがないと、悪い人まで信じ過ぎてしまうこともあるわけです。  

乳児期において、このような「基本的不信感」よりも「基本的信頼感」の方が勝って体験することによって、「希望」という「人格的活力」(よりよく生きていくための力)が備わるとしたのです。その「希望」は今後の人生において「安定」や「安心」に繋がります。「自分が生きていてもいいんだ」、「誰かがちゃんと自分の事を見てくれているんだ」という思いや体験を十分にすることによって、人生の土台となっていくのです。


●乳児期に見られる主な問題

◎関係性障害(Relationship Disorder)

赤ちゃんと母親の関係性の問題のことを称して「関係性障害」と呼びます。この時期の赤ちゃんと母親は情緒的に強く結び付き、母親(時に父親も)の世話のもと、成長・発育をしていきます。

その中で赤ちゃんは母親に対し、様々な言動や表情を発信し、その言動や表情の裏側にある感情や情緒を母親は読みとっていき、赤ちゃんに母親の言動や表情を返していきます。(このことを「情動調律」(D・スターン)や、「情緒的応答性」(R・エムディ)と専門的には呼ばれます。)そのような相互交流によって、赤ちゃんと母親との間に良好な愛着関係が育まれ、既述の「希望」といった力が定着していきます。  

しかし、この時に、赤ちゃん側の要因(例えば、未熟児や言動や表情を発信する力が弱いなどといった要因)、あるいは母親側の要因(知的な問題、心身的な問題、虐待体験など)があると、相互交流が阻害され、よい関係性がもてなくなってしまうことがあります。

 

2.幼児期初(前)期:(1歳半~3歳ごろ)

自律性⇔恥や疑惑  ―意志―  

この時期は言語の獲得が急速に起こります。(語彙爆発の時期とも呼ばれます。)同時に、自我の目覚めとして、「ぼく・わたしがやる!」といった自己主張が出てくる時期とも言えます。これまでは身振りや表情といった非言語的なコミュニケーションから、その身振り手振りに加えて、言語が伴うようになってきます。

そうして、これまで「保護者→赤ちゃん(子ども)」という一方向で終わることが多かったやりとりが言葉が発達するにつれて「保護者→赤ちゃん(子ども)→保護者→赤ちゃん(子ども)…」といったやりとりに変化してきます。その中で、赤ちゃん自らの「知りたい」、「やってみたい」、「仲間に入りたい」といった積極的な行動が見られるようになります。(2歳頃にみられる「イヤイヤ病」は健全な発達段階の一部と言えます。)

赤ちゃん本人は「やりたい」と思っていてもなかなか上手に出来ないことが多いです。失敗すること(水をこぼしたり、物を壊したり…)によって、保護者から怒られることもあるでしょう。そういった、「やりたい」けど「うまく出来ない」といった「自律性」「恥や疑惑」というポジティブな力とネガティブな力の拮抗がテーマとなります。(「しつけ」というテーマとも言えるでしょう。)

具体的には、赤ちゃんが「失敗するかも??」、「怒られるかも??」という「恥や疑惑」を持ちつつも、自ら「自分でやってみる」、「出来た!」といった「自律性」を持てるようになることがテーマです。

ここでのポイントは先の乳児期と重なりますが、保護者(主に母親)の見守りです。失敗するかもしれないけれど、うまく出来た時には誉められるといった体験が重要となっていきます。もちろん失敗した時には、注意も必要です。しかし、注意ばかりを受けてしまうと、行動や自分でやってみようという思いが萎縮してしまいます。(これは成人でも同様でしょう。)

一方、何をやっても良い状況だけになってしまうと、失敗に気付きにくくなったり、わがまま放題になってしまうかもしれません。失敗しつつも、成功体験をより築いていくことが幼児期初(前)期のテーマとも言えるでしょう。このことは排便・排尿といったトイレットトレーニングや、他者(外界)を傷つけない、他者(外界)から傷つけられないなどといった、「しつけ」の習得の時期でもあります。始めは、保護者の手を借りながら、徐々に自分自身の力で行えるようになるプロセスです。

以上のように、この時期は、「恥や疑惑」よりも「自律性」の方が勝って体験することによって、ここでは「意志」という「人格的活力」(よりよく生きていくための力)が備わるとしたのです。その「意志」は今後の人生において「積極性」や「自主性」となっていきます。


3.幼児期後期(学童期、遊戯期とも呼ばれる):(3歳~6歳ごろ) 

積極性⇔罪悪感 ―目的を持つことー

前の「幼児期前期」の段階で、「自律性」が育まれていくと、「あれもしたい、これもしたい」といった、自分で考え、行動する「積極性」がでてきます。(心理学ではこれを「内発的動機」とも称します。)言語的にも動作的にも発達し、保護者(大人)との会話も成立するようになります。大人の真似や、子ども自身で考えた遊びをするようになります。

しかし、そのような自らの意志での行動は、時に善悪の判断や安全・危険の判断がまだ出来ない段階とも言えます。そこで保護者からの規制や助言といった、自分とは異なる大人との関わりによって、その善悪の判断、安全・危険の判断(俗に言う、社会性やルール等)が育まれていきます。

また、同年代の子どもとの交流の中では、各家庭での出来事を子ども同士で真似てみたり、「ごっこ遊び」と呼ばれるような遊びが見られたりするようになるのもこの時期に多いと言われています。そのような「ごっこ遊び」を通じても、先の社会性やルールを身につけていくとされています。  

言語的にも身体的にもより高度なやり取りが出来るようになり、様々な外界の興味に積極的な行動をとることは、時に同年代の子どもとの衝突や競争が生じてきます。その際に、自分の思い通りにならないことや、親からの注意・叱責を受け、処罰されるかもしれないという不安を引き起こすことになります。(この時に生じるのは「罪悪感」と呼べるでしょう。)この時の不安(罪悪感)を精神分析の生みの親のフロイトは「去勢の不安」と名付けています。

ここでは「積極性」と「罪悪感」というポジティブな力とネガティブな力の拮抗がテーマとなります。 具体的には、「積極性」を伴う様々な場面への介入や関わりによって、「うまくいった!」、「自分の思い描いた通りになった!」という体験のもと、自信の形成がポジティブな力となります。逆に、「うまくいかない…」、「怒られた…(怒られるかも?)」といった体験により、「罪悪感」を持ってしまうことがネガティブな力となっていきます。そのような、プロセスにおいて、「罪悪感」よりも「積極性」の方が勝って体験することによって、ここでは「目的(を持つこと)」という「人格的活力」(よりよく生きていくための力)が備わるとしたのです。その「目的(を持つこと)」は今後の人生において「希望」や「夢」の土台となっていきます。

 

4.学童期:(6~13歳ごろ) 

勤勉性⇔劣等感   ―自分は(苦難を挑戦・克服)できるという自己効力感―
この時期は、小学校入学~卒業までの時期とされています。生活の主な場所や時間が保護者(家庭)から学校や同年代へと舞台が移っていく時期でもあります。子どもたちは、小学校に入学すると、必ずと言っていいほど、同年代の友人に興味・関心を抱き、行動を共にし、関わりを持つようになります。また学校という教育の場から、知識や教養を学ぶ機会に身を置き、テストや成績といった外的な評価・数値化もなされていきます。競争が少なく、守られた状態の家庭から徐々に離れ、先の「積極性」と「罪悪感」の拮抗を抱えながら、今度は学校という環境の中で、同年代と関わりながら、自分の得意・不得意を感じとっていく段階でもあります。そしてその中で、自分で工夫や努力(積極性を生かし)をし、自分の望むことを達成していきます(目的の達成)。そのための原動力を「勤勉性」と呼びます。

一方、そうした新しい環境の中で、失敗や叱責といった「傷つき体験」もしていくのです。ライバルに運動や勉強で負けることや、合唱祭や体育祭での勝ち・負けに伴う喜びや悔しさ(「劣等感」)を体験していきます。

ここでは「勤勉性」と「劣等感」というポジティブな力とネガティブな力の拮抗がテーマとなります。 この段階になると、多くの方々が体験したことのあるようなエピソードが出てきます。特に小学校高学年ともなれば、創意工夫や独自のやり方で、勉強にしろ、運動にしろ、レベルアップを目指していくようになります。時に、努力したが結果が伴わず、悔しい思いをすることや、落ち込むときも出てきます。その時に必要となるのは、他者からの労いや、「よくやったね」という優しい言葉で、それが自信となっていきます。それが「自分はやれば出来るんだ」という「自己効力感」と呼ばれるものになっていきます。(エリクソンは「有能感 Competence」と呼び、学ぶことで得られる喜びや困難な仕事に取り組み問題を解決していくプロセスで得られる喜びを支えるものとしました。)

しかし、この時期に、頑張ることや、苦労を乗り越える体験をせずに(つまり「勤勉性」を養わずに)、過ぎてしまうと自ら学ぶことや物事に取り組む力も弱くなってしまいます。加えて、自分なりの頑張りや努力をけなされたり、認められなかったりすることばかりだと、「自分はだめなんだ」、「頑張っても意味がないんだ…」という「劣等感」を抱いてしまうことになります。

「劣等感」を抱えつつも、「勤勉性」の方が勝るような体験を積むことがこの時期に重要な課題であり、その結果、「自己効力感」という「人格的活力」(よりよく生きていくための力)を養うことに繋がるのです。


5.思春期・青年期(13歳~22歳ごろ)

自我同一性(アイデンティティ)の確立⇔アイデンティティの拡散 ―忠誠心や帰属感の獲得―

中学生から大学生くらいまでの時期をさします。この時期は第2次性徴や異性への関心、性的欲求の衝動といった様々な変化が多く起きる時期でもあります。非常に多感な時期で、この時期はある種の病的なこだわりや言動も見られることがあります。(一過性の場合もあるので、この時期の精神的な揺れや、それに伴う症状と思われるような言動や発言の判断、及び解釈には、慎重を要する必要があります。)

小学校時代とは異なる、より大きく、様々な地域や特性を持った同年代の集団の中で生活をすることになる時期です。よって、この時期はそのような集団の中で「家族の中で自分とは…??」、「学校において自分の役割とは…??」、「相手にとって、自分の存在って…??」、「生きている意味は…??」といった「~~である自分」についての疑問や葛藤を生じやすい時期でもあります。

このような「~~である自分」というのをエリクソンは「アイデンティティ」と呼びました。このアイデンティティは日本語で「自我同一性」とも呼ばれます。親に対して子どもである自分や、部活動の中での部員としての自分、異性との交際において男性・女性である自分、といった様々な場面や文化の中で異なる役割を担うことになります。(このような様々な場面での役割をユング心理学では「ペルソナ」と呼びます。)

そのような様々な集団の中で、理想とする先輩や先生に「自分も近付きたい」、「あの人のようになりたい」という思いで、自分もその人のように振る舞ったり、考えを真似たりといった言動を取るようになります。このような言動をエリクソンは「同一化 Identification」と呼びました。「憧れ」を原動力に、その「憧れ」の人物になりたいという想いゆえの言動です。(アイドルの服装を真似たり、尊敬している人物が勧めていた本を読んだりといった行為で、多くの方が通る道でしょう。)

しかし、それらの理想の人物も、よく観察していくと、その人の至らない点や、自分の中での考えが生まれてきます。(例えば「アイドルもただの人間だ」と思い、テレビの中の理想よりも現実の異性へ関心が高まることや、「この先生はこう考えているけれども、自分としてはこう思う…」といった独自の思考の展開・構築といったプロセスです。)そして、「本来の自分」や「求めていた自分」というものを獲得していきます。このような言動をエリクソンは「自我同一性(アイデンティティ)の確立」と呼びました。

このような理想化と失望・発見の経験のプロセスを通じて、自分独自のスタイルを獲得していくことになります。その獲得には大きなエネルギーやストレスはつきものです。なぜなら、これまで理想とした人物や思考という、お手本があった訳です。それらに向かって「同一化」していた(ある意味、模倣していた)自分から、オリジナルな自分を作りださなくてはならないわけですから、人のせいにしたり、他人に任せたりできなくなります。その作業の際に、「孤独感」や「自己不信感」などを抱きながら「オリジナルな自分」を形成していくのです。

以上のような、プロセスがここでは「自我同一性(アイデンティティ)の確立」と「アイデンティティの拡散」といったポジティブな力とネガティブな力の拮抗となります。ここでの拮抗のプロセスは大変な労力が必要となります。「自分が自分であることに誇りを持ち、属する集団や周りの人々の中での自分の居場所の確保」をしながら、その反面「自分は属する集団や周りの人々に受け入れられているのだろうかといった孤独感や迷い・動揺」といった葛藤と向き合わなくてはなりません。その葛藤の結果、これまでの発達段階と同様、「自我同一性(アイデンティティ)の確立」「アイデンティティの拡散」を上回っている状態になることによって、「自分はこの集団にいていいんだ」、「この人々に所属しているんだ」という「忠誠心や帰属感」の獲得に繋がるのです。

しかし、この時期の拮抗(葛藤)は、これまでの発達段階のものよりも、より複雑で高度なものと言えるでしょう。そのため、エリクソンはアイデンティティが形成されていく一定の時期を「モラトリアム」と呼びました。(この「モラトリアム」については後述にて詳細を記したいと思います。)

日本では幸いなことに、このモラトリアムの時期は長く保証されていると言えます。つまり義務教育以降の、高校・大学制度です。この時期に様々な社会的集団や属性の中での役割習得を、実験的に試みることや獲得の練習を行うことが出来るのです。しかし、中には、このモラトリアムの期間内で、自身の「自我同一性(アイデンティティ)の確立」と「アイデンティティの拡散」の拮抗状態に耐えられない人や避けてしまう人が出てきます。その結果、「アイデンティティの拡散」の力が強くなってしまうと、「オリジナルな自分」の決定をしないことになりますから、「自分」というものが不明瞭で分かりづらいものになってしまいます。

様々なメディアや文献において、現在の日本では、この「自我同一性(アイデンティティ)の確立」は難しいものと言われています。その理由として考えられるのは、様々な価値観の多様化、性役割の変化、過剰な情報社会、職業選択の増大及び自由化などが挙げられるでしょう。一昔前の日本であれば「家制度」が主流で、総領や長男といった言葉により、家を守ることに重きを置かれていた時代もありました。そのような時代においては、その家に生まれた者は、将来の職業や住居などは決められていると言えるでしょう。その決められた将来によって苦しむこともあったかと思います。(もちろん、それぞれの時代によってこの「アイデンティティ」の問題に苦しむ人はいたと思いますが…)しかし、すでにある程度、決められた性役割であったり、職業であったりするため、限られた中からの選択となります。

それに比べて現在は、家や性役割などが、非常にフラットになり、ある意味、「なんでもありの状態」と言えるかもしれません。そのことが、思春期・青年期の発達課題である、「自我同一性(アイデンティティ)の確立」を難しくさせている要因とも考えられるでしょう。

 

●モラトリアムについて

この「モラトリアム」という言葉は、本来、経済用語です。緊急の事態が生じた際の、支払い等のある一定期間の猶予を認めることを指します。そこから、エリクソンは、思春期・青年期における「オリジナルな自分」を形成していく、ある期間を「心理社会的モラトリアム」と称しました。

日本では小此木啓吾が「モラトリアム人間の時代」(1978)の出版以来、「モラトリアム」という言葉(概念)が一般化し、多くの人に知られるようになりました。が小此木啓吾は、エリクソンの言うモラトリアムを古典的モラトリアムとして位置づけ、日本の状況を加味し、既述の「オリジナルな自分」を形成していく期間を引き延ばし、幼児的な万能感と欲求の追及に浸っている状況下にいることを「モラトリアム人間」と呼びました。現在であれば、ニートと呼ばれる方々を指すとも言えるでしょう。

エリクソンと小此木啓吾の「モラトリアム」の捉え方の差異は、エリクソンはモラトリアムを「ある時期を示す時間的概念」でありましたが、小此木啓吾は一種のアイデンティティの拡散状態を指す用語となっている点です。この点の差異は時代の流れの影響もあると言えるでしょう。

 

●思春期・青年期に見られる主な問題

思春期・青年期は以上のようなこれまでの発達過程とは異なる、より複雑でエネルギーを必要とする激しい時期でもあります。そのため、精神疾患を発症する可能性が高い時期ともいえます。以下は、この時期に多く見られると考えられる精神疾患や状態等です。

・非行
・うつ病(抑うつ状態)
・引きこもり(無気力)
・性同一性障害
・不登校
・統合失調症
・神経症
・強迫神経症
・自己臭恐怖
・パニック障害
・視線恐怖
・醜形恐怖
・対人恐怖
・摂食障害(拒食症 過食症)
・人格障害
・アルコール依存症


6.成人期初期(22歳~40歳ごろ) 
親密性⇔孤立   ―幸福・愛―

激しい、思春期・青年期を乗り越え、成人となり、社会に出ていく時期となります。肉体的にも精神的にも活力にあふれ先の「オリジナルな自分」をもって社会や世の中に貢献するための自我の強さが必要となってきます。ここでは属する社会はもちろんのこと、同性の友人、異性の恋人といった信頼できる人物との親密な関係性が構築されてくる時期でもあります。そのような関係性を構築するための能力を「親密性」と呼びます。この「親密性」の基盤は、先の「アイデンティティの確立」が必要です。オリジナルな自分の考えや価値観、思想がある程度自分のものとして確立されていなければ、違った価値観を持つ他者や異性と、それらについて語り合うことが難しくなっていきます。

一方、関係性を構築する際に、相手との相性やタイミングなどが影響し、時に自分を見失うことや、自分の価値観が揺らぐことも出てきます。その結果、「自分は間違っていたのではないか?」、「相手に受け入れてもらえないのではないか?」という不安や恐怖を抱くことで、「孤独感」を感じるでしょう。

ここでは「親密性」と「孤立(孤独感)」というポジティブな力とネガティブな力の拮抗がテーマとなります。親密な関係性の構築は特に異性との間に強く見られます。彼女・彼氏という関係、そして人生の伴侶となる人物との関係、それに伴う性的関係が精神的な内実を伴って実現するのがこの時期ともいえます。相手のために尽くすことや、自己をさらけ出すことによって相手との信頼や愛情というものが育まれていきます。その際には「親密性」が重要になっていくことは自明のことでしょう。

しかし、相手に尽くすことや、自己をさらけだすことには、相手への信頼・愛情の存在もさることながら、自分への信頼もなくてはなりません。ここで全段階の「アイデンティティの確立」が重要となってきます。この確立が曖昧で脆弱であると、相手に過度に依存する傾向や、相手に妥協する形の付き合いとなる可能性があります。その結果、自己が傷つく、もしくは喪失してしまうという恐怖のために、対人関係に深く関わらず、回避や距離をとることになってしまい、「孤立(孤独感)」に陥ってしまう結果となるかも知れません。

以上のような、プロセスを通じて、この時期に「親密性」を築く体験が「孤立(孤独感)」に陥る体験よりも上回ることによって、「幸福感や愛」という「人格的活力」(よりよく生きていくための力)が備わるとしたのです。

 

7.成人期後期(壮年期・中年期)(40歳~65歳頃)
世代性(生殖性)⇔自己停滞   ―世話―

この成人期(後期)は「世代性」と「停滞」というポジティブな力とネガティブな力の拮抗がテーマとなります。この「世代性」とは、次の世代を支えていくもの(子どもや、新しいアイデア、技術といった後世に貢献できるようなことを指します)を生み、育み、将来積極的に関心を持つということです。この「世代性」の言語は「Generativity」と言いますが辞書にはなく、エリクソンの新語です。

具体的には、これまで、自分の世代を中心として、家族内役割や社会内役割というものを培ってきました。自身の社会的地位の向上や、体験の蓄積、そして家族内での立場の決定といった、出来事がなされ、俗に言う働き盛り(30代~)という時期を過ぎ、肉体的にも精神的にも、ある高原状態とも言えるような時期ともいえます。換言すれば、自分自身の特性や属性などが、確立し、変化に富むことが少なくなってくる(いい意味でも悪い意味でも…)時期とも言えます。

自分自身で動くことが主流であったライフスタイルが子どもや後輩、後身の育成といった次世代のライフサイクルと交差してくる時期でもあります。具体的にはこれまで、自分の人生の中で培ってきた(育んできた)学問、知識、体験をより次世代、もしくは後進に伝えていくことによって、自身のより良い成長になり、自己が活性化されると考えられています。人生の先輩として、後輩(他者)から求められることを与え、伝えていく。そして、そのような、自身からの能動的な他者への関与をすることによって、より後輩(他者)から求められるといった良い循環が生まれることで、「世代性」が生じます。

一方で、この時期に、次世代への関心の薄さや関わりの無さが強い場合、他者と関わりあいがなくなるため、自己満足や自己陶酔に陥りやすいと言われています。そのような状態に陥ってしまうと、この時期のネガティブな力である「停滞」が生じます。(俗に言う、「頑固な中年」と呼ばれてしまうこともあります。)

現代の日本の現状は、この時期の問題が大いに影響しているとも考えられます。時代の流れによる価値観の多様化などの要因も考えられますが、この年代が自身の価値観や考え方に意固地になり、後輩や後世の者たちに伝えることを避けてしまう傾向も見受けられます。もちろん、後世の者たちにも、何らかの問題はあるとは思います。しかし、この「世代性」「停滞」という観点を考慮すると、良い循環ではなく、逆に「与えない」から「求めない」、「求めない」から「与えない」といった、悪循環に陥ってしまうことで、双方に停滞や孤独を生みだしてしまっているようにも感じられます。

成人期後期(40歳~65歳頃)の発達課題としては、自分の事しか考えられなくなってしまう「停滞」(俗に言う「頑固」や「古い考え」などといったもの)よりも、次の世代を支え、育み、次世代の人生にも責任を持ち、良きものを次世代に託していくといった「世代性」の方が上回ると、「世話(ケア)」という「人格的活力」(よりよく生きていくための力)が備わるとしたのです。


8.老年期(65歳~)
自我の統合⇔絶望   ―知恵―

エリクソンの提唱したライフサイクル論の最後の段階です。「老年期」という言葉からも自明のように、この時期は「老い」の時期となります。肉体的・身体的な衰えは万人に平等に与えられ、避けることはできません。そのような衰えにより様々な機能の低下が生じやすくなってきます。そのような機能の低下を補うように、これまでの経験や知識、人徳が集大成となっていく時期とも言えるでしょう。

エリクソンはこの「自我の統合」の意味を「秩序を求め、意味を探す自我の動きを信頼する確信である」と述べています。やや難解ですが、よりかみ砕いて言うのであれば、「家族や地域を超えた、より大きな世の中や人類の秩序や意味の伝承と、肯定的にも否定的にも、自分自身の人生を振り返った際に、「良い人生だった…」と確信をもって受け入れられる力」と言えるでしょう。そして、この力は、最終的な「死」の受容に大いに影響を与えることは自明のことです。

その「死」を受け入れる力の乏しさや、様々な衰えに対しての恐怖などを抱くことは「絶望」というこの時期のネガティブな力となります。そして、この「絶望」の力が強すぎると、自ら命を絶つ(自殺)ことになってしまいます。

現在の日本では、より効率性・実用性が良しとされる風潮があると言えるでしょう。そのような社会の中で、この老年期を捉えるとなれば、「役に立つか」、「役に立たないか」といった基準で評価される可能性が高まります。それでは、この時期の拮抗のテーマである、「自我の統合」よりも「絶望」の方が上回る事は仕方ないことかもしれません。

そのような社会では、利用価値のないものは除外するといった殺伐なものとなるでしょう。そのような殺伐としたものではなく、親子関係、兄弟関係といった小集団の段階から、学校、会社、国家、人類といった大きな集団においてまで、これまで述べてきた各段階のライフサイクルでのポジティブな力がネガティブな力より少しでも上回り、人格的活力を得たプロセスを経験していくことが最終的に、この「自我の統合」に至ると言えるでしょう。

 

●老年期に見られる主な問題

老年期は、肉体的・精神的な衰えが万人に生じます。そのため、その衰えから精神疾患を発症する可能性が高い時期ともいえます。以下は、この時期に多く見られると考えられる精神疾患や状態等です。

・認知症(脳血管性認知症・アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症)
・うつ病
・せん妄
・神経症
・アルコール依存症

 

9.<さいごに>

エリクソンの提唱したライフサイクル論(8段階)を通して唱えられている、ポジティブな力とネガティブな力という「拮抗」のプロセスを乗り越えるには、それぞれの発達段階に応じたエネルギーが必要となってきます。それらを全て順調に乗り越えていくことはほぼ無理と言えるでしょう。そして、各段階を乗り越えれば、もう安心と言う訳ではなく、後戻りもあります。つまり、様々な発達段階における拮抗のプロセスによる危機(不安)はどの年齢の時期にも存在するものであると理解されます。

例えば、幼児期後期(3歳~6歳ごろ)の拮抗のプロセスで「積極性」よりも「罪悪感」の方が勝り、何事に対しても無気力感や諦めといった目的を持つことが出来ない状態であったとしても、思春期・青年期(13歳~22歳ごろ)において、「自我同一性(アイデンティティ)の確立」と「アイデンティティの拡散」というテーマの中にいつつも、自分自身が夢中になるような対象や関心・興味に遭遇し、のめりこむ程の没頭や熱中することで、「積極性」が「罪悪感」を上回ることもあるでしょう。そして、アイデンティティの確立と共に、人生の目的を見出すことに繋がるかもしれません。

人間が生きていく人生の中で、ライフサイクルの各時期は、前の段階の結果であり、次の時期の準備と言えるでしょう。そのような形で各時期が親密に関わりあい、影響しあい、各個人の人生を作り上げていくといった理解が大切と言えるのではないでしょうか。

 

 

 

参考・引用文献
・下山晴彦編、2003、「よくわかる臨床心理学」、ミネルヴァ書房.
・日本児童青年精神医学会監修、2009、「児童青年精神医学セミナー1」、金剛出版.
・内田伸子著、1999、「発達心理学」、岩波書店.
・鑪幹八郎著、1990、「アイデンティティの心理学」、講談社現代新書.
・鑪幹八郎著、2002、「アイデンティティとライフサイクル論」、ナカニシヤ出版.
・小此木啓吾他編、1998、「精神医学ハンドブック」、創元社.
・小此木啓吾、1978、「モラトリアム人間の時代」、中央公論社.
・森有正、1970、「生きることと考えること」、講談社現代新書.